徒然なるままに

双極性障害を持つアラサー男子の療養、日常を書いてます。

6月27日 夜釣で大アジを狙う

こんにちは。

サバを愛し、サバに愛された男・・・そう我こそは!!!!!!

 

中略

 

預金残高7,247,600円

キャッシュカードの暗証番号3843・・・

 

もう一度言います。3・8・4・3

サバ読みって覚えてくださぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいイィィィィ!

 

前振りはこのくらいにして、昨日は仲間と三浦へ夜釣りに行きました。狙うは大アジ!14時に入釣。暗くなるまで各自だらだらと昼間釣れる魚を狙います。

今回はルアー・・・持ってますが投げなかったです。ワームはちょっとだけ投げましたがコツコツしたあたりのみでした。

フカセは小鯖も少なくスズメダイを交わすことができればいい感じでしたよ!

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足裏メジナ連発。これはこれで楽しかったです。でも1.2号のラフィーネで抜き上げられるレベル。

 

タモ使うサイズがこない・・・まぁ今日の狙いはアジだからいいやと思ってました。ちなみに同行者の従弟はワームでいいサイズのカサゴをゲットしてました。

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いよいよ暗くなり電気ウキを装備。コマセもアミエビとアジ用のコマセを追加。

昼間アミエビ入れるとこの時期だと餌取り地獄になります、ご注意ください。それと言い忘れましたが磯ブヨ対策をしないととんでもないことになります。なんとかなるだろう・・・なりません!対策をしましょう。爆風とかですと刺されない場合も多いです。

 

暗くなってからしばらくは餌が残るか謎の餌取りが・・・

だいたい餌取りはフグだったり小鯖だったりでした。そして日没から1時間半、時は来た!

電気ウキが勢いよく沈みます。セオリーでは早合わせをしない、ゆっくり、そして乗せる。

合わせるとガクンと、竿がいきなりぶち曲がりました!ものすごい勢いで走る。回遊魚特有の泳ぎです。無理をすると口切れでバラすのでレバーブレーキと竿のしなりで溜める、堪える。

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30オーバー!黄金色のアジです!そこから仲間内でも当たり始めフィーバータイム突入。

しかしここでまさかの来客。

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アジに混ざってまさかのデカさば。アジより引きが強烈です。

見辛いですが竿をぶちまげひたすら耐える私の絵。

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帰宅して気づいたんですがドラグ、洗浄時のまま締めっぱなしでした。。。レバーブレーキ操作がうまくいっててよかった。

結果、アジより鯖が多くなってしまいました。

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22時半にみなさま弾切れで撤収。そのあとも続けてたらすごいことになったんだろうか。それにしてもみんな釣れて良かったです。帰りは時間との戦いで急いで帰りました笑

 

帰宅して妻が起きていたのですぐ片付けと調理。釣りたてのアジを刺身でいただくことにしました。息子は寝ているのでこっそりと静かに薄暗い中での調理・・・危ない。

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うまそうでしょ!久々のアジです!食す時にはすでに深夜2時・・・アホですね。

それでもこれが食べたかった。変な表現ですがこのアジはコリっとした食感があります。

ね、すごいでしょ!

他のサバは今日の晩御飯。

まずは朝から仕込んでおいたシメサバを・・・炙りに!

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あと何にしようか、唐揚げかなと思ってたんですが思いつきで油淋鶏、ならぬ油淋鯖。

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結構美味しかったです。なぜか懐かしい味・・・給食っぽい感じがしました笑

なぜでしょうね。

 

フカセでの大アジ釣り、しばらくはまりそうです!

今度詳しく使用したタックルやコマセを紹介したいと思います。

死生観について その2

おはようございます。

前回に引き続き死生観について書いていきます。念押ししていっておきますが私は宗教家でも霊能力者でもスピリチュアルな人間でもありません笑

強いて言えば何も信仰していません。悲観的意味合いではなく神も仏もない、と思ったりもしています。

 

おさらいですが

・死というものは当然誰にでも訪れるもの。

・「死」というものは無になるということが現実的に近い表現である。

・宗教とは生きる上でのルール、社会を構築する役割を担っていた。

・宗教では死に対する恐怖や悩みを緩和する役目がある。

 

さて人が死ぬ瞬間というのはどういったものか。前回にも書きましたが眠りに落ちるようなものに見えます。眠りに落ちるようなもの、ではなく我々生きている人間から見ればそのように見えるということです。実際ではドラマのように最後に何か言葉を残して亡くなる場合はほぼないそうです。言葉を発した後、意識レベルが下がり昏睡状態から臨終という流れになります。よくある喋っている途中でガクッとなるシーン、現実ではその後脈も呼吸もあり・・・ということです。実際に立ち会ったことがある方はわかるかと思います。それを見て眠るようなと表現させていただきました。

意識レベルが下がるということは夢を見ているか何も感じていない状況なのかもしれません。脳の活動によるものですから活動が弱まれば当然考えることや感じることも薄くなってしまいます。感覚や聴覚は残ると言われていますね。それをわずかでも脳が感じ取ったりすればその人には最後の温もりとして感じられるのかもしれません。

 

散々死後の世界は無と言いましたが私自身100%そう考えているわけではありません。来世だったり天国だったり地獄だったりがあってもいいと思っています。自分が死んで何もない、無。と思って生きていくのは悲しくなりませんか?

こうやってなんらかの宗教思想が人々の心の救いになっているんです。

 

亡くなった人、特にご先祖様を敬う気持ちは必要だと思います。その人のおかげで自分がいたりなんらかの影響を与えてくれたのだから。例え信仰が無くたとしても仏教で言えば13回忌くらいまで、お盆はお彼岸は手を合わせるだけでもいいのでするべきだと思います。関係が薄い方の法事は正直面倒だなと思う場合もあるでしょう。嫁ぎ先なんかだと知らない親戚ばかりで大変でしょうがそれをめんどくさいなどほざくようなら結婚しなければよかったじゃん、ということになります。その逆も然り、嫁の親戚の行事などで出席するのがめんどくさいなどいった思考も同じです。なら結婚しなきゃry

一度こうゆうことがあると結婚生活が終わる場合もありますね。私もとある身内に父の法要がめんどくさいと言ってるの聞いて悲しさと怒りが込み上げ、最終的に殺意に変わりそうになりました。亡くなった方へ敬う気持ちがあれば、敬う気持ちがなくても常識的にはそのような言葉が当事者に知られないよう配慮しなければなりませんね。

このパターンのトラブル、まぁ痴話喧嘩みたいなものですが割とよく耳にします。

 

なぜそうなるか、という持論ですがそれは死生観が足りないからだと思います。

死ぬことについて一度でも深く考えれば自然とわきまえられるようになりますし何より自分がそうなった時を考えれば落ち着くものです。

 

古くからの知人にお坊さんがいるのですがよく死生観についてお話を聞きます。

職業なので仏教の教えを学び、それを人々に伝えるのですが内心は意外とドライだそう。信仰がないわけではなく良い行い悪い行いは全て自分に返ってくると、己を高めるのも首を締めるのも自分。結局自分のすることが全て。そして亡くなった後はおそらく無なんだけど宗教がある以上は信じていて損はないと思う、それを広めようと、慰めようと思う。とのことでした。これを聞いたのは5年ほど前ですが心に強く残りました。

名言だ!と思ったのは教えとは違うそうですが

亡くなった方は霊や仏になる・・・のではなく祈りそのものになるのです。

 

最初聞いた時は????でしたが最近になってようやく理解しました。確かに霊や仏になり天国に住んでるかもしれません。でもそれは現世とは別世界です。では我々の住む現世では・・・お参りしたりお線香上げたりするのは我々です。故人を思い、手を合わせて。。。

ね。故人は我々の祈りという形になっているのです。これはかなり現実味のある死生観ではないでしょうか。

 

父について書いた時、泣きながら謝った、それは自分の気持ちを楽にするため。現世とあの世で考えた場合、故人はすでにいないのですから謝ったところで聞いてないんだと思います。(宗教の教え上はそうではありません、霊や仏として存在します)謝れば、お参りすればなんとなく気持ちの整理ができますし落ち着くこともできます。

これがいわゆる「祈り」という存在なのです。

そして故人は「無」またはこの世界以外のものになっている。

 

なーんからしくな記事を連日作成しましたがたまには真面目でちょっと外れた話もいいかなと。何か他に深いお話があれば(持論ですが)また書きたいと思います。

 

死生観について その1

おはようございます。

連日の割とブラックな記事で申し訳ありません・・・前回の告知通り今回は死生観について書きたいと思います。なんでこの時間なのかと・・・これから釣りに行くからです。超早起き。

 

私の場合、初めて人の死に触れたのが小学校3年生の時。一番好きだった祖父の死でした。父方の祖父です。祖父もまたがんでした。すい臓がん。癌家系ってあるのか知りませんが祖父が膵臓、父が胆管と二人とも質の悪い癌で亡くなった。私はどうなるんでしょうかね。不安とかは今の所何もありません。当然健康には気を使ってます!

家庭菜園の無農薬野菜を食べ、魚を食べ、肉嫌いを克服し・・・あとはストレスと禁煙くらいですか。禁煙は医者に止められるという偉業を達成したのでどうしたものかと笑

普通医者が禁煙をやめなさいって言いますか?聞いた時思わず笑ってしまいましたよ。確かに精神的にストレスがかかります、精神疾患なのでよくないのもわかります。健康にもよくない、、、差し引いても禁煙しない方がいいんですか笑

健康的にも経済的にも禁煙したいんですけどね・・・長生きしたいし。

 

序章が長くなりました。人の死に触れる機会は滅多にあるものじゃないと思います。そうゆう仕事をしていれば話は別ですが。その後同じ年にひいばあちゃん、21歳の時に母方の祖父、2年前に母方の祖母、今年父。まさかの順番でした。父方の祖母は元気に暮らしています。それが酷でもあります。自分の子供が死ぬというのは耐え難いものでしょう。神の贈り物か父が亡くなってから祖母の認知症が悪化しました。たまに父が亡くなったことを忘れるようです。完全に忘れ去ることができないようで、ふと思い出した時に新鮮な記憶として蘇り泣いています。全て忘れられたら楽だろうかと考えさせられます。

 

死生観について考えたのは20歳前後。音楽にのめり込みひたすら泣ける曲を探していた時期がありました。そこで自分もそのような曲を作り、作詞をする際に死生観について真剣に考えたのが最初です。

 

そもそも死とはなんですか。

 

この世を去ること、生命活動が停止することなどなど

死んだらどうなるかなんてわかりません。死んで帰ってきた人はいませんから。霊的なお話はないものとして続けます。私はホラーが苦手なので

 

デスノートで死神が言ってましたが死んだ先にあるのは無だと思います。

根拠はないです。生まれる前の記憶ってありますか?前世の記憶とかスピリチュアルなものも除きます。

無だとして考えても死は怖いですか?

無というものを考えられるのは生きているからです。無は無音無香無光無風無感のようで違います。何もなければ何も感じず何も考えられない存在です。そこに達する過程は怖いと思います。でも一度無になれば何もないのです。

 

ちなみに私は宗教家ではありませんので。家柄的に仏教浄土宗です。

 

人が亡くなる瞬間、ほぼ脳が機能していないのだと父を看取って思いました。亡くなる数日前から寝ている時間が多くなり、何か夢を見るのかと訪ねたところ「何もない、ただ寝て気がついたら時間が過ぎてる」と言っていました。死をこの辺りで本人が自覚できる最後のチャンスなのではないでしょうか。その後は静かに寝たように息を引き取りました。近年では終末期でも医療麻薬の普及により痛みがかなり抑えられると聞きます。最初に亡くなった祖父はずっと痛がり苦しんでいるのを覚えています。父にはそれはなくなんとなく痛い程度といっていました。もしかしたら表には見えないところで苦しいことがあるのかもしれません。ただ多くの方の場合、臨終間際まで痛がることはないそうです。意識が朦朧としているためだそう。どんなに我々生きている人間が考えたところで想像にしか過ぎず、実際のところはなってみないとわからないですね。それは人生最後のお楽しみとしてとっておきましょう。死ぬ瞬間に全てを悟れたらいいですね。

人の死に立ち会うことで死生観が養われます。死の恐怖というのは人間の想像や妄想によって怖さが増している面があります。身内の死に目に合うと怖さが軽減するかもしれません。私はそうでした。今まで何人もの親しい愛しい人の死を見てきました。怖さがないわけではありません。死後が無とするならばその人とは二度と会うことも話すこともできないからです。その恐怖を和らげるために宗教の教えが存在し、心に救いをもたらすものだと考えます。

 

宗教は必ず死についての教えが存在します。

私が考える理由は

・絶対回避不能の恐怖を少しでも和らげるため

・死という最大の恐怖を利用した人々の抑制

 

人は想像、妄想ができる生き物です。その想像と妄想が一人歩きをし、未知のものに対して恐怖を生み出すと考えます。これら宗教の死後で共通している部分があります。

それは生前の行いが死後の世界の質に影響を及ぼすというもの。

なぜそのような考えが生まれたのか。

宗教が誕生した時代では法律というものがあったのかもしれませんが今ほどガチガチなものではありませんでした。殺人、不倫、レイプ、窃盗などなど抑制するものがそこまでなかったのでは?と思います。なので宗教を用いて人間最大の悩みであり恐怖である死を使って人々を人道的なものにしていったのではないかと思います。いわば法律の原点のような存在です。それぞれで若干の違いがある(例えば一夫多妻制など)のはその地域柄によるもの。

もともと人間も野生ですから今では考えられないことをたくさんしていたに違いありません。動物を見てみれば共食いもしますし縄張り争いで同種を殺めることもあるでしょう。また弱肉強食の理念がはっきりとしています。人間社会でも存在しますが自然界ほどのものではありません。社会で弱いからといって命まで取られることは少ないからです。もし人間が縛られずに暮らしていたならば今のような文明は生まれなかったでしょう。どういうわけか少なからず人間は束縛されていることに安心感を覚えます。安定した生活、というのも縛りのうちになります。新しいことには当然不安を感じるでしょう。それはそこでの束縛がわからないことも要因ではないでしょうか。生きている以上、絶対に訪れる死という束縛が存在しているのも事実。ただ普段はそこまで意識していないと思います。死に対して考えるとき、病気になったり、事故にあったり、自殺したくなったり色々あると思います。

病気の場合、死を意識するのは死にたくないから。

事故も同様。自殺したくなるのは現実に嫌気がさし全てを無にしたいと考えるから。これらもほんの一部の思考だと思います。死について考えると何があるのか。死ぬとは何か、怖いものとしてではなく、自然の摂理として考えて見てはいかがでしょう。何かしらの変化が起きるかもしれません。

 

少し長くなりましたので続きはまた今度。